由来・沿革|真言宗智山派 宝珠山玉塔院 光明寺



 由来・沿革

-- 由 来 --

宇都宮市街地を縦貫する釜川は、その昔「池の辺」と言われ、野沢の東西二つの沼を源流として宇都宮市内へと流れている。
この沼は東弁天沼西弁天沼と呼び、沼の湧き水は、弁天橋の先で合流し釜川となる。特に東弁天沼周縁台地から弥生式土器が多数発見された。 約2000年前、弥生時代中期にはこの辺で稲作が行われ野沢式土器が出土し一躍有名になった。
平成13年宇都宮北道路建設に伴う発掘調査により、約12000年前の縄文草創期の住居跡が発掘され、また、もと玉塔院北側部分に室町時代の土抗墓450基が発見された。
江戸時代は、日光御成街道が通じ、人通りも多く、また、幕府直轄領であり、宇都宮宿と徳次郎宿の中間に位置しているため、徳川家墓参時大名の休憩所としての役割もはたした。
もとの寺は、現在地の東(現在のサマーランド北)にあったが、御成街道ができたため移転した。
 

東弁天沼
西弁天沼
合流地点

→ 東弁天沼に設置されている案内板はこちら

-- 沿 革 --

文禄2年(1593年)宥憲法印により、石塚(静桜の東)に玉塔院と称し創建したが万治3年(1660年)10月焼失。
寛文11年(1671年)3月山城宇治醍醐光台院より早開法印が来寺、現在の桜田に移転、光明寺と改めた。
天保4年(1833年)2月再び焼失、天保14年(1843年)栄明法印、本堂、薬師堂を再建した。その後宝木十ヶ新田近在の子弟のため寺子屋を開き、読み,書き、そろばん、農業商業往来、曲尺裏目利用その他を教えた。
以後、栄順法印、弁海和尚が継承し明治20年(1887年)まで続けられた。
当時の塾生が書いた、床の間天井の落書き「天満宮」が現存する。
徳川将軍、日光ご社参の折りは境内にお茶場を設け将軍の休憩所とした。 玉塔院の境外堂に、源義経を慕い奥州下向の静御前が休憩され、守り本尊(薬師如来)を土中に納めて、塚を築き、携えた桜の杖を挿して武運を祈った。
後にこの杖に根が生じ大木となり珍花を咲かせたので、これを静桜、桜本薬師さんと呼んで信仰を深めた。今の桜は12代目、薬師如来は秘仏として、安置されている。
本堂脇の寳篋印塔は宝暦7年(1757年)女人講が建てたもので、往来の人々の安全と子供達の健康を願った。
明治初期の廃寺は免れたが、その後無住職時期に寺有財産の殆どが寺社奉行や、関係者によって私有化され、また戦後の農地解放により、寺有地の殆どが開放になった。
建立後150年を経過し老朽化のため昭和46年庫裏、昭和51年に本堂を再建し、以後、鐘楼門・客殿を建立し、境内を整えて、現在にいたる。
本堂天井に日本芸術院の豊川蛯子画伯画6帖大の「飛天」壁画、鐘楼には人間国宝、香取正彦門弟 鴇田力 鋳造の梵鐘を備える。 興教大師御遠忌を記念し大般若600巻を備える。 境内には修行大師、ぼけ封じ寿正観音立像、宝暦の供養地蔵尊(本堂地下出土)の無縁塔ほかが安置されている。
 

寳篋印塔 
「飛天」壁画 


 
 

のざわてら 「真言宗智山派 宝珠山玉塔院 光明寺」